自分史 第29話 第三章 終の棲家は何処へ


HIME企画を設立した年2006年は、息子も大学入学。

京都へお引っ越しだった。

18年間一緒に暮らしてきて、何よりも淋しいなと思った一瞬だったが、

それは一瞬で、お互い親離れ、子離れの自立の時となった。

 

それまでは子育てのことも考えて、会社の近くに住まいを構えていたが、

息子も出ていったら、その必要もなくなった。

社長も社長の座について10年程経とうとしていたので、

いつまでも目の前に会社がある必要もない。

私たちは息子が大学に入学してからしばらくして

20年近く過ごした会社の前のマンションを離れた。

私たちもお引っ越し。

 

2008年、5月下旬にお引っ越しも決めていたその1か月ほど前、

義父が入院した。

どうもかなり前から腹痛を我慢していたらしい。

結果的に手術を施したがどうやら上手くいかなかったようで、

ほどなく他界してしまった。

私の知る限りでは、会社を創業し、物を作れば売れる時代に会社経営を安定させ

仕事一筋の人生だったと思う。

盛大な葬儀となった。

 

2008年の5月はお葬式、そしてお引っ越し。思い返せば分岐点の年だった。

 

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いつも5月の終わりごろに咲く玄関の花

引越ししたマンションの入り口

引越ししたマンションの入り口

 

私の実家はというと、80過ぎの母は知多の実家で元気に暮らしていた。

ただ、いろいろ問題があり、時折私に電話で相談があった。

いろいろというより、一番の問題は私の兄のことだった。

 

兄は大学入学とともに実家を離れ、一度目の結婚に失敗し、

その後、未婚の父となる。

自分の息子が産まれるかもしれないからと言って、

妹である私の結婚式をすっぽかした人だ。

自分の父親の葬儀には、6才くらいになったそその子も連れてきて

しばらくは夏休みなど実家に顔を出していた。

うちの息子にとっては唯一のいとこになるわけで

歳は4つほど上だったが仲良くしていた。

 

ところがこの兄、金銭感覚がまったくない。

もともとお坊ちゃま育ちのせいか、

大学まではお金に困ったことがなかったらしく、

社会人になってもそのまま…

結婚しても、お金が入ればすぐ使う、の繰り返し。

結局明日の米も変えない窮地に追い込まれ、最初の結婚はジ・エンド。

どうやら父の生前、金の無心をしていたようで、

父に断られれば、兄に甘い叔母、それもダメなら

借金といった具合。

借金地獄で本人だけが苦しむ分にはかまわなかったが、

どうやら知らないうちに随分面倒な話になっていた。

サラ金の取り立て電話が母にかかってくるのである。

どういうこと。

お人よしの母は、それでも息子は息子なのだろう、

どうやらいつの間にか息子の借金の保証人になっていた。

取り立て電話がかかってくるようになった時には、

すでに膨大な額になっていて、とても母の手にも、

叔母たちの手に負えないものだった。

あげくの果ては実家の家も土地も担保入りになっていた。

 

ひどいな…。

とはいえ、このまま放っておいてもも益々借金は増えていく。

誰も頼れず、私は弁護士を立てた。

自分でサラ金の取り立て電話に出たこともあったが、

こんなに人をいやな気分にして、追い込む言葉が世の中にあるんだ、

というような卑劣に電話には二度と出たくないと思ったから…。

 

弁護士が代わりに取り合ってくれたが、

借金がなくなるわけではない。

私が出した結論は実家を手放すこと。

もし、肩代わりして返済したとしても、

兄はまた同じことを繰り返すと思ったので、

借金できる担保は無くした方がいいと思ったから。

 

手放す前、私は叔母と二人で実家を片付けた。

私にとっては生まれた場所、20年以上住んだ家。

どうして自分で処分しなくてはいけないのか…

どうして兄はそんなことができたのか…

私は帰りの車の中で、涙が止まらなかった。

どうして…どうして…。

 

家を売ったお金でも借金返済は足らなかったが、

とりあえず、一件落着。

母は50年過ごしたその場所から小さなアパートへ移る。

アパートと言ってもも長屋みたいなところで…

私としてはいたたまれなかったが、どうしようもなかった。

しかし、母は1年も経たず軽い脳梗塞で倒れ、

結局地元の老人ホームには入ることになる。

まずは一安心。

きれいで広いし、誰かが近くにいて、面倒を見てくれている。

 

ただ、母親は相変わらずのわがままで、

「あの雑誌買ってきて、これ食べたい」三昧。

ま、サラ金の電話に比べたら最高だ。

 

2年くらい老人ホームにいただろうか、もともと糖尿病だったのだが、

ある晩突然心臓発作で亡くなった。

その前の日まで、「あれ、買ってきて」とわがままを言っていたのに。

「死ぬまで元気でいたい」といつも言っていた母の

思い通りの逝き方だった。

私にとっては面倒な母だったが、

結局一番の子孝行。

最高の死に方。私もこうして死にたいな。

「死ぬまで元気で」

2011年、3月。母はあの東日本大震災を知らずしてこの世を去った。

 

 


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